”なんか変である”というリミナルさ。
映画の中に出てくるバックルームが主人公クラークの心情のメタファーであることはなんとなく察しがつく。
自分の心を外の世界から守るために、小さい頃から繰り返されてきた習慣。変わらない毎日を過ごしている様に見えて、何かは確実に変わっていっている。そして取り返せないほど歯車がずれてしまった時、もう元の場所には戻れなくなる。
というのが映画に対しての考察にはなるが、考察という行為自体がこの映画にとってはあまり本質的ではないように思う。
今世の中を牛耳っている映画・ドラマ・ドキュメンタリーなどは視聴者の考察とセットになって、それ自体のコンテンツを生成している。
バックルームズは、そういった”考察の時代”の次のフェーズにある。
”なんか変である”ということを”なんか変である”というままに表出した映画。表現ですらない表出。
そこには考察などは必要なく、ただその”変さ”を受容して何かを思うという行為のみが意味を持つ。
身近なリミナルスペース
記憶の中にあるリミナルな出来事を探したり、現実世界のリミナルスペースを探してみるのが最近の私のブームだ。
例えば、ドラクエ8のラプソーンの城地下の円形の町。あれめっちゃリミナルスペースだったなとか。
ゼルダの伝説時のオカリナにて。大きな部屋の天井の一角の穴からフックショットの的のみが見えていて、その先にも空間が広がっている感覚。あれリミナル感あるなとか。
おばあちゃんの家にあった、よくわからない場所にある扉。その先にバックルームありそうとか。
ネーブル嘉手納がリミナルスペースっぽいという感覚は沖縄県民の中で共有されていると思うが、私が沖縄で最もリミナルすぎてやばいと感じた空間は、カラオケハウス 具志川店だ。あの場所はほんとうにめっちゃ変。内装が落ち着かなすぎる。一回行ってみてほしい。
リミナルとは不合理である。
これらの空間に共通しているのは、なんか不合理であるということだと私は考える。
合理的なモノを作り出そうとして、生み出された不合理な部分。
大きな建物の中に、四角い合理的な空間を作ろうとして、余っちゃった三角の空間のような。部屋ですらない屋根裏の謎の空間とか。
AIが計算すると完璧に割り切れる数字を、人間が同じように計算してみてもなぜか余りが出てしまうような。
なぜが不合理にはみ出てしまった部分。これを人間らしさと表現するとリミナルスペースの味わいが1ランク落ちてしまいそうな気がするが。
人間がどうしても合理的になりきれない不合理の部分ってあるよね、という感じ。それが人々がリミナルスペースに惹かれる所以のような気がした。
